「自分がされて嫌なことを他人にするな」
こんな言葉を聞いたこと、あるいは言われたことがあるかもしれない。
これもとんでもない話だ。
人間の感受性は十人十色、嫌なこと・嫌じゃないことなんて個人によって捉え方が変わるものなのに、まるで社会の中で共通した価値観があるかのようにこの言葉は使われる。そして大抵、この言葉を吐くものは自分が正しいことを言っているという風な振る舞いをしていることが多い。
まるでギャグだ。この言葉を使う者は他人の快・不快がすべて見えているのだろうか?
よくある場面で考えてみよう。
公園で2人の小さな子供(A君、B君)が別々に砂遊びをしている。A君は泥団子を作り、B君は砂のお城を作っていた。突然、A君がB君のところまでやってきて、砂のお城を踏み潰した。それを見たA君の親は慌ててしかりつけ、件の言葉をなげかける。
あなたがB君の立場なら悲しいだろうか。悔しいだろうか。
私が仮にB君の立場ならそうは思わない。むしろ突然のA君の奇行に胸を躍らせ、嬉しさを感じるだろう。それは砂のお城をつくることなんかよりも何倍も楽しいことに思える。B君から見たらA君はそんな感情を芽生えさせてくれる、とてもおもしろい人間に見える。
しかしA君の親にはその感情は見えていない。
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こんな場面は社会の中でいくらでも存在する。
他人の心はブラックボックスだ。どこまでいっても想像することしかできない。
この記事を読んであなたが感じたことも、誰にも見えない。
だから安心してその感性を磨いていけばいい。
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